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The unknown disaster of a collapsing cross
メイプルストーリー、楓サーバーのパラディンのプレイ記、ではない。アラド戦記関連(分館)もあるよ。
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敬虔なる……葬列であり……実相とは……
以下、"この"私達の存在性が儚いのとは違う、ある意味では確実性のある現象界における戯言。


友人の価値について。
私達は人の間でしか生きられない。故にジンカン、人間、とな。されど、そこには意味も価値もあるのと同じように、無意味も無価値もある。だけならいいが、負債も担保もあるのである。しかもおおよそ常人には不可避なのである。
では結局のところ、取捨選択をどうするかを考えよう。結論は実にイージー、プラスとマイナス、収支を考えて時には切り捨て、時には拾う。これが言うのもアホらしい世の中のスタンダードです。
実は私も人間なので、人づきあいがないというわけではありません。
しかし、とかく他人は私の脳内を覚めさせない。なにも口を動かしながら終始苛立ったり虚しがったり、そこまで面白い自我の持ち主でなかったのがまさに不幸の一端だが、付き合って時間と金を無駄にしたのち、その虚ろさに気付く。
なんとなく下らないバラエティー番組を見て、「時間を無駄にしたな」とぼやくその心境に似ている。
他人は私の脳内を上回らない。その交流は、私の脳内より下らないし、ユーモアもないし、私を楽しませる舞台装置としての価値も薄い。
挙句、私とはすれ違い、果てに私が或る言葉の選択、他人の反応の表れに、一体それが40点か50点か、その判断を悩む始末である。私にとっての8割が実現しないのはちょろっと考えてみれば瞬間分かる些事であるが、しかし、後の祭りを思案に加えてしまうのは些か愉快な出来事ではない。それが失敗ではないとはいえ。
いや、あるいは根本から既に失敗しているのか。
さて、だからといってこれを相手に転嫁するのは酷薄にも程がある。私は脳内の小人と会話し、世の小人に失望する……などとファンシィにしてみればいかにも分かり易かろう。私の脳裏に他人はいないし、また入る隙間もないし、道理もないし、そのような気味悪さを許容出来る程聖人でもない。つまり、私は私。故に、私の思索は私を重ねるのみ。己より外が劣っているのか、はたまた、適わなかっただけのこと。
で、あれば。
暇潰しの道具として扱うがよかろう。まぁ、中々に丁度いい生き方であるのか。しかしこれ、行くも地獄、退くも地獄である。報われない思考形態。
それを承知しているが故、自己を騙して享楽に興ずることもあるだろう。それが結局、結論である。
というか、それを出来ないのはヤバイ。
現代は色々出来ることも増えたため、アナクロな対人より興の乗るステージも溢れているものだが、残念ながらそれのみで徹頭徹尾隙間を埋められる、そこまでぶっ飛んだ世界にパラダイムシフトはしてない。
とりあえず、私の思い描く最上の幸せの形はいつから思っていたか忘れましたが、5年くらいは変わってないと思います。
機械に繋いで、一生楽しい夢を見させる。自覚も許さない。
とまぁそんな幼稚な妄想は程々にしておいて、もう一つの腐食面である。
愉悦の問題はよろしい。欺瞞にもほどがあるが、どちらにせよ世界と己と超自我と騙し騙され詐欺ごっこ。喚いても仕方ない。大人しく今日も明日も永遠に騙されることを選べば生きることに不都合はない。息を継ぐことに不具合はあるが、なんて上手いこと言ってみたり。あまり上手くもないか。
はてさて、ではもう一つのそれ、といえばすれ違いという奴である。なんとまぁ、これも溢れていると言われてしまえば如何ともし難い常識である。
これは私の、私のみにおける認識と感覚の話になるため、場合によっては赤っ恥をかく内容になる。といっても、私個人のみの意識と心なので、同時に理解の及ばない保証がされている……というのが基本なのだが、私の想定する範囲でも幸運による同調が充分存在し得る上、それ以外の可能性として、勘違い、誇大妄想、そういう落とし穴の可能性も捨て切れなかったりするのだ。そのときは恥ってレベルじゃない。ハラキリを要求される段階である。
まぁ、所詮リアルタイムの問題になるので、いわゆる漏れや忘れというのも多分に考えられはする。例えばこうして無為すぎる時間を確保して文章に起こしたとて、ついつい忘却してしまっていた大事なこと、なんて本当に物珍しくもない。哀しくなる話である。
本当のことを言うと私も人間なので、であれば、他の人間にも同じことが適用出来ると考えるのは自然。おや? でもそれだと噛み合わないのは異常だぞ?
とまぁ、噛み合わないだのという表現を用いると、私の前頭葉に毀損でもあるのか。そういう解釈も出来てしまう。調べたことがあるわけではないので、そういう考えを却下して叩きつけて粉微塵に粉砕してしまうというのは実は出来ないのだが、しかし、ある程度客観的な、これは私の脳髄にある客観という席から私が見た視界という、そういう意味であるのだが、とにかくそういう見方をした場合に私に恐るべき甚大な欠陥があるようには思えない。時として他人を自己対話の中継点として考えている節があるようにしか思えないが。この事例が外で確認出来るかどうか思い返してみたが、自己主張の強いミサワが思い浮かんだ。いや、それは真剣にヤバイ。ヤバイけどさすがにミサワとは似てもつかない、と思える。あー、自己との螺旋思考がどうとか言ってるのに、自分の全景は掴めないとかホントアホらしー!
さて、そんなことはどうでもいいけど、本題に戻ると、詰まる所違和感である。そういう意味ではすれ違いという言い方は如何にも大袈裟で、拡大解釈ともいえる。
本質的に重なっていない。この重なりとは、人間は一人で死ぬ、なんてありふれたお話を引き合いに出せる意味で用いているわけではない。そんなの当たり前である。人間は何らかの属である前に一人というのはフランス人権宣言からだって引き出せる。だからそういう話ではない。会話の成立が不思議に思える。見逃すレベルの微細な罅。同時に、致命的な見落とし。
軋轢も何もない。が、お笑い草だが一抹の孤独である。孤立はない、孤独である。なんと幸せなことであろうか。我々は幸せという砂糖の中に苦みを発見しているだけなのである。
だから所詮、大局的に見ればこれは清浄な湖に落ちた一滴の泥水。真に拘泥するべき問題ではなかったはずなのだ。
ゆえ、この文字もまた無駄なのだ。どうでもいいことで頭を回しているだけの愚かさ。
一生悩んで死ね。無駄な苦しみだが、苦しむのをやめたとき、真に無為に堕する。であれば、苦しみ続けることこそ崇高。それこそが優劣が仮初に決する瞬間。愚かに愚かを重ねるのは承知だが、実は私は生き方を知らない。であるからこそ、生きる振りをしてみているだけ。その末路は何処へ。さてさて。



とまぁ、戯言を久し振りに読み直してる中での更新でした。どうにも最初に読んだ時とは色々違う身なのもあって、うーん、結構思うところがある。
もっとも、読み直し始めるのが先か、この発想が先なのか、どっちか忘れたけど。どっちが先かで、大分意味が変わりそうだけど。


コメ返
>>聖徳
うむ。
しかし、そういうの固いのって読んでると、分かりやすく言えよ! って中々にムカつくものだけど、書いてても結局意識が文章という要らんことにバラけて散漫に。捗らないという不思議。
誰が得をするのかって感じだ……慣れればやっぱりサックリ書けるのかもしれないけど。
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