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The unknown disaster of a collapsing cross
メイプルストーリー、楓サーバーのパラディンのプレイ記、ではない。アラド戦記関連(分館)もあるよ。
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彼我十一星に告ぐ
なんだ、今年も終わりか。

折角だから去年の話を反故にしちゃうような話をしよう。
麗しい乙女と愛を語らいたいなぁ。
是非夜通し語り合いたい。
情熱的に、かつ腐乱沈殿的に。
愛は囁きたくないです。囁かれたくもないです。
自己愛について語らいたい。他者愛について語らいたい。有形の物に対する愛について語らいたい。無形の物に対する愛を語らいたい。異常性愛について語らいたい。愛憎について語らいたい。愛という字の真ん中に本当に心が入っているのか語らいたい。
そんな願望は異性はおろか同性についても叶えられないのが切ないところ。ではありますが、結局のところ自分がそれを果て無く求めていないのが詰まるところであるのが大元でもある。私の思いは全然狂おしくもない。じゃあ結局、切迫した必要性はないってことだ。まぁ、形もない恋人を追い求める必要性はないのではないかと考えている己があるため、この帰結は宜なるかなって感じでもある。そんなハラ減ったから食い物探すみたいな。順番がおかしいんだよ。
そんな感じで、孤立と孤高を謳った去年とは微妙に食い違う設問について宣ったわけですが、なぁに予定調和だ。
私としては人間の超越に興味はないでもないですが、これやはり人間の枠組みを起点として、そこに則った軌道を描くのと同様のことです。人間として生まれたからには、人間として生きる"べき"、だとか、人間の素晴らしさ、だとか、そういう叫びを発するつもりは毛頭ありませんが、人間として生まれたからには蛆虫だったり、ダークマターだったり、ハスターとして生きるのは無論無理なのです。なればこそ、己の事実について完全完璧的外れな見解を示すわけにはいかない。人間の超越というならば、人の身にして人を超えてみせろ。そういうこと。
まぁつまり何かといえば、人間性という言葉について、私はそれなりの尊重の念を抱いているということです。だからこそ、矛盾して然るべきなのです。友を愛すがいい。そして隙なく裏切れ。己を崇拝するがいい。そして遺憾なく寝首を掻け。
人間は強くない。だからこそ団結する……みたいな涙ぐましい方向性に持って行ってもいいのですが、いやいいわけないんですが、まぁ強くないからこそ矛盾してしまう存在なのです。実力不足であったばかりに食い違う。全てを均すことができない。全てを揃えることができない。行き進めば進むほどに、崩れ綻ぶ。そういうった罅割れが、弱さ故に生じる……というのはどうも腑に落ちないが。矛盾故の強固さについては以前書いた。なればこそ、その起因が弱さであるというのは、少々納得しがたい。なら強さなのか? というとこっちも疑わしいので、"強くなさ"とでもいってお茶を濁しておくのが都合がいいでしょう。どうでもいいけど、猿とか強すぎるよね。人間が知能を伸ばしたのは了解してるけど、なんかすげーパワーダウンしたともいえて微妙な気分だぜ。
そして、そういう整合と矛盾を繰り返す己という、芯は貫徹していたいものですね。それこそ矛盾、なんつって。



「限界を超える」とか、「運命を変える」という言葉がある。
有り触れている。
どうもスッとしない言葉である。限界を超えてお前は何処に行っているんだ。限界の先には何もねーからー限界じゃねーのか。
といっても、漫画とかで限界突破して変わり果てた姿になる主人公とか好きですよ。萌え、じゃなくて燃えますね。そこら辺はなんつーか、公私混同しない的なものじゃないのかな。世の中潔癖症じゃやってけませんよ。厳格主義じゃ息が詰まりますよ。ついでに、そこまで己を律するのは無理すぎますよ。そういった完璧主義って、強迫性という恐怖とセットが常だし。やっぱりそういうこと。
そして、運命。
運命、ね。
運命は変えられないと思います。といってもそう悲嘆を催すものではない。少々の切なさと共に語られるべきものではあると思いますが、絶望とセットにされるほどの大層なものではない。
そもそも、運命は変えられる派としても、生き方が私と変わらないならばそぐう話であるでしょう。うむ、この文章からして人に話したことがないのが見て取れる。俺はひとりずもうでもやってな。
時折、運命はレールに喩えられることがある。"親に敷かれたレール"なんてその最たる言い回しか。そのレールをイメージしよう。今立っているところから、様々な方向にレールが伸びている様を。伸びるレールはまた、途中で様々な方向に分かれ、無数の道筋が見えている。
ここから己の行く道を選びとるのだ。己の生き方次第で、色んな道がある。腐ったレールもあれば、綺麗なレールもある。障害物のあるレールもあり、短いレールも長いレールもある。どのレールを通るかによって、風景も変わるだろう。
……という考え方は出来るのですが、果たしてこれに何の意味があるというのか。なれば、終着まで走って振り返ってみろ。一本道だ。いくら曲がっていようと遠回りしていようと、その筋道は一筆で描けるようになっているはずだ。ということは、選び取ることの出来るほどたくさんあった他のレールは、ただの張りぼてだったということ。他の道を選んだらあったであろう可能性? そんなものは妄想だ。チラ裏にでも書くが良い。パラレルワールドの解釈を持ち出すならば、やはり己の自意識が一つしかない以上無意味。"わたしA"と"わたしB"がいても、この場合わたしは"わたしA"なのである。まぁここらへんでわたし周辺(記号としてのわたしと記号ではないわたしとか……)についての話もできるが、話が逸れる上確実に凄く長くなるのでするわけ無い。もし複数の意識で生きている人(多重人格というわけではなく、複数の身体と意識で)がいるというなら……いや凄いですね。どんな気持ちで生きてるのかそいつの出した本でも読んでみたい。まぁまとめると、運命とは選んだり変えたり出来るものではなく、単なる轍に過ぎない。だから、運命に強制力はない。己の人生に深く根付いてはいるが、同時に語るべき必要性を全くと行っていいほど持たないものである。このあたり、神に近い。絶大な力を持っているようで、いてもいなくても実のところ大差ないのである。
だから運命を悲観する必要はないのだ。悲運に嘆くならば、嘆くのも運命だったというだけのこと。生きているなら、既に運命と仲良しなのだろう。最後まで添い遂げな。いや、離婚届は出せないけどな。


今のうちに言っとこう。新年あけましておめでとう。
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